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JaLYA/Japan-Laos Youth Association

ラオス情報information

タート・ルアン Pha That Luang

   活動報告写真   

 タート・ルアンはラオス仏教の最高の寺院で、ヴィエンチャンの名所というだけでなく、ラオス全体のシンボルであり、現在の国章にも描かれている。タートとは「塔」を意味する言葉で、ルアンは「光り輝く」という意味、全体で「光り輝く塔=黄金の塔」という名前を持つ。        

 伝承では紀元前3世紀にマウリヤ朝のアショーカ王が派遣した仏僧によって仏陀の胸骨を納めるために建立されたインド寺院が基になっており、現在でも仏陀の遺物が塔内に残っていると言われている。        
 歴史的には1566年にランサーン王国のセタティラート王(建物正面にはこの座像が建てられている)により、13世紀初頭に建てられたクメール様式仏塔の廃墟を修復、改築して建てられたものだと伝えられている。当時は、四方を四つの寺院に囲まれる形で再建されたが、現在は北と南の寺院が残るのみであり、これらのうち、北の寺院(ワット・タート・ルアン・ヌア)にはラオス仏教界最高位の僧侶が住んでいる。        

 1828年のシャムの侵攻や、1873年の清の侵攻などの戦争や雷などの自然災害により大きく破壊されたが、1936年に改修されて現在に至る。        活動報告写真        
 タート・ルアンは上から見るとほぼ正方形の形をしており、外壁の1辺の長さは約85メートル、仏塔の1辺の長さは約69メートル、高さは約45メートルとなっている。中心の大きな仏塔を30の小さな仏塔が取り囲み、さらに仏塔全体を回廊が取り囲む様式となっている。        
 中心の大きな仏塔はかつて黄金でできていた(覆われていた)と伝えられているが、現在は黄金色に塗装されている。三層構造の塔は、泥の池の中から美しいハスの花が咲く様子をかたどり、それは人が仏教に目覚める様を表している。        

 祭壇に上る階段の左右には蛇神(ナーガ)が配されている。ナーガは、インド叙事詩に起源を持つ、蛇の精霊あるいは蛇神のことであり、釈迦が悟りを開く時に守護したとされ、仏教に竜王として取り入れられて以来、仏法の守護神となっている。天気を制御する力を持ち、怒ると旱魃に、なだめられると雨を降らす。中国においては龍と同一視され、多くの描写が龍にも取り入れられた。        

活動報告写真 インドの叙事詩「マハーバーラタ」第1巻「アースティーカ」では、ナーガは造物主であるプラジャーパティの娘カドゥルーが聖仙カシュヤパに嫁いで生まれたとされる。プラジャーパティのもう一人の娘ヴィナターもカシュヤパに嫁いでガルダを生んだが、後に馬の尻尾の色についての賭けに負けたことから、ヴィナターとその息子ガルダはカドゥルーやナーガたちの奴隷になった。その後、ガルダは神々の王インドラと戦うなどして母ヴィタナーを解放させたが、ナーガとは仇敵となった。ちなみに、タイではこのガルダを国章に用いており、その仇敵であるナーガがタイの寺院に配されることは少ない。    

 ナーガこそはラオスの仏教寺院の守り神なのである。        
 上は祭壇横に掲げられた碑板であり、礼拝の際に唱えるべき経文が記されている。        

 

セタティラート王 Setthathirath II

   活動報告写真   

 ランサーン王国の王。16世紀、ビルマ族が周辺部族を制しタウング王朝を興すと隣国であるランサーン王国に対しても侵攻を始めることが予想された。タウング王朝の躍進を目にしたセタティラート王は、1560年に王都をルアンプラバンからヴィエンチャンへ移した。ヴィエンチャンはタウング王朝の侵攻ルートからは離れる一方で、アユタヤ王国の領域に隣接しているという不安材料も抱えていることから、セタティラート王はアユタヤ王国のマハーチャクラバット王に対し同盟を申し入れ、1562年、セタティラートがアユタヤ王国のテープ・カサティ王女を娶ることにより両王国に同盟関係が結ばれた。        

 1563年、タウング王朝支配下のチェンマイ王国において支配からの脱却を求めて貴族セーンノーイらが挙兵したが失敗し、ランサーン王国へ保護を求めてきた。タウング王朝は彼らの受け渡しを求めたが、ランサーン王国はこれを拒否したことから、両国間の溝は決定的なものとなった。        

 1570年、アユタヤ王国を滅ぼしたタウング王朝は、1571年よりランサーン王国へ侵攻を開始し、王都ヴィエンチャンを攻めたが、食糧補給路の確保に苦慮し、撤退していった。セタティラート王はこの侵攻をきっかけとして対岸のノーンカーイに避難したが、翌年病死した。        

 その後王位をもつノー・ムアンが幼少であったため、セーン・スリンタルサイがノー・ムアンの王位を継承する形で即位したが、セーン・スリンタルサイは平民出であったことから地方領主や住民に対しての威厳を保つことができず、国内は荒れることとなる。そのため、1574年のタウング王朝の再侵攻を食い止めることができず、王都ヴィエンチャンへの入城を許してしまい、ヴィエンチャンは陥落し、タウング王朝の支配下の下、セタティラートの弟であるウォラ・ワンソーが新しい国王に任命されたが、1579年に起こった住民の反乱蜂起から逃れるため、ウォラ・ワンソーは筏でビルマへの逃亡を図り、その際に筏が座礁してしまい、溺死している。        

 タウング王朝はその後も何人かのラオ族にランサーン王国の統治を任せようとしたが、いずれも短期に終わり、直轄統治へと切り替えていった。タウング王朝の統治は住民への重い課税が影響し、ラオ族がさらに南下せざるをえないきっかけとなり、この時期にラオ族の居住範囲がチャンパーサックへと拡大している。        

 1591年、タウング王朝に監禁されていたノー・ムアンが釈放され、ランサーン王国の新しい国王に任命されると、王国の治安は回復し、安定を取り戻したが、ノー・ムアンは在位7年、1598年に27歳という若さで死去してしまった。ノー・ムアンに実子がいなかったことから王位継承争いが勃発し、宰相のウォーラ・ウォンサー(タンミカラート)が王位を継承した。ウォーラ・ウォンサーは王位継承と同時にタウング王朝からの独立を宣言し、その後24年間に渡って執政を行った。        

 1622年、ウォーラ・ウォンサーが実子ユーパラートに暗殺されたのを期に以後凄絶な王位継承戦争が勃発し、国王が即位しては暗殺されるという事態が1633年のスリニャ・ウォンサーの即位まで続いた。スリニャ・ウォンサーの執政は57年という長きに渡り、ランサーン王国も繁栄期と呼べる目覚しい発展を遂げている。        

 

ワット・ホーパケオ(エメラルド寺院) Wat Ho Pha Kaew

   活動報告写真   

 1565年にランサーン王国のセタティラート王(1世)の命により、建立された寺院である。        

 王の父であるボティサラート王の崩御により、セタティラートが王位を継承した後、ビルマのタウング王朝からの侵攻を避け、王国の首都をルアンプラバンからヴィエンチャンに遷都した。その折、エメラルド仏(パケオ)を旧王都ルアンプラバンから移し安置したのがこの寺院である。        

 歴史的には1566年にランサーン王国のセタティラート王(建物正面にはこの座像が建てられている)により、13世紀初頭に建てられたクメール様式仏塔の廃墟を修復、改築して建てられたものだと伝えられている。当時は、四方を四つの寺院に囲まれる形で再建されたが、現在は北と南の寺院が残るのみであり、これらのうち、北の寺院(ワット・タート・ルアン・ヌア)にはラオス仏教界最高位の僧侶が住んでいる。        活動報告写真  当初は王の祈りの場所として建立された王室専用の寺院であったが、1779年、タイとの戦争により建物は焼失し、エメラルド仏はバンコクに持ち去られた。その後、1936年に現在の建物がフランスによって再建されたが、原型が不明だったことから復元ではないといわれている。現在は博物館として使用され、国内各地から集められた仏像などが並べられており、ここには僧侶はいない。なお、中庭にはジャール平原から運ばれた石の壷も展示されている。        

 祭壇に上る階段の左右には蛇神(ナーガ)が配されている。ナーガは、インド神話に起源を持つ、蛇の精霊あるいは蛇神のことであり、釈迦が悟りを開く時に守護したとされ、仏教に竜王として取り入れられて以来、仏法の守護神となっている。天気を制御する力を持ち、怒ると旱魃に、なだめられると雨を降らす。中国においては龍と同一視され、多くの描写が龍にも取り入れられた。        
活動報告写真 ラオスでは、このナーガが多くの寺院にモチーフとして取り入れられている。この左側の写真にあるように、ナーガが別のナーガに食べられているようにみえるものもある。これは、ナーガの口から新しいナーガが生まれていることを表現するものであり、ラオスの歴史や伝統・文化が、再びラオスに受け継がれていくことを意味するものである。        

 インドの叙事詩「マハーバーラタ」第1巻「アースティーカ」では、ナーガは造物主であるプラジャーパティの娘カドゥルーが聖仙カシュヤパに嫁いで生まれたとされる。プラジャーパティのもう一人の娘ヴィナターもカシュヤパに嫁いでガルダを生んだが、後に馬の尻尾の色についての賭けに負けたことから、ヴィナターとその息子ガルダはカドゥルーやナーガたちの奴隷になった。その後、ガルダは神々の王インドラと戦うなどして母ヴィタナーを解放させたが、ナーガとは仇敵となった。ちなみに、タイではこのガルダを国章に用いており、その仇敵であるナーガがタイの寺院に配されることは少ない。    

 エメラルド仏(パケオ)について        

 
エメラルド仏とは、現在バンコクのワット・プラケーオに安置されている仏像で、玉仏とも呼ばれる。タイ人のアイデンティティーの一つでもあるとされるこの仏像は、民間では霊験あらたかな仏像とされるため、タイ人のみならず、東南アジアの上座部仏教国からも巡礼者が巡礼に訪れる。タイ国王の手によって年に三回、夏・雨期・乾期のはじめに衣替えがあり、これは王室の重要な行事の一つである。
活動報告写真
 エメラルド仏といわれるが、実際にはヒスイである。

 紀元前43年、北インドのパータリブトラ(現在のパトナ)で作られたといわれている。 この地に約300年安置されていたが、内乱が起こり、破壊を怖れた仏教徒により セイロン(現在のスリランカ)に運ばれる。

 エメラルド仏が東南アジアに戻ったのは、ビルマのパガン王朝の最初の王とされるアノーヤター王(在位1044年-1077年)が、国内の大乗仏教僧(アリー僧)を追放し、上座部仏教の経典である三蔵経を求めてスリランカに行ったことによるとされる。アノーヤター王は三蔵経とエメラルド仏を積んだ船で帰ったが、その帰路でインダパタナガラ(マハーナガラ、現在のアンコール・トム)に漂着した。この際、三蔵経は持ち帰ったが、エメラルド仏についてはそのままインダパタナガラに残ることになった。

伝承によると、インダパタナガラでは王の息子がアブラバエを飼っており、バラモンの息子がクモを飼っていたが、このクモが国王の息子の飼っているアブラバエを食い殺した。このため、王の息子は悲しみ、王はトンレサープ湖でバラモンの息子を殺した。これを知ったバラモンは王を呪い退散した。そして、ナーガ(竜)の王が洪水を起こし、インダパタナガラを壊滅させた。壊滅の真相はともかく、これによりエメラルド仏はアユタヤのアッディカー(アディッチャ)に帰することになった。        
活動報告写真        
 アユタヤ移動後、エメラルド仏はカムペーンペットの王によってカムペーンペットに持ち込まれた。カムペーンペット歴史公園にあるワット・プラケーオはこのときエメラルド仏が安置された寺だと考えられている。その後、ラーンナーのクーナー王の弟、マハープロムがカムペーンペットからエメラルド仏を持ち去り、チエンラーイに安置した。その後、ラーンナー王セーンムアンマーとマハープロムが抗争を起こした為、エメラルド仏は戦火の中密かに隠された。

 1434年、チエンラーイのある寺の仏塔が落雷で破壊されたとき、その中から漆喰でできた仏像が見つかった。しばらくして、ある仏僧がその漆喰の仏像の鼻がもげているのを見つけ、よくよく調べると中にヒスイの仏像が入っていたと言われている。現在では、チエンラーイにあるワット・プラケーオがこの寺であったと言われている。

 仏像発見後、ラーンナーのサームファンケーン王は白象をもってエメラルド仏をチエンラーイから首都のチエンマイまで運ぼうとしたが、三度試しても象がラムパーンに引き返すので、王はチエンマイにエメラルド仏を運ぶのを止めた。その後、サームファンケーン王の六男であるティローカラート王の手により、エメラルド仏のチエンマイへの運び込みは1468年にようやく成功した。

 1548年、ランサーン王国のセーターティラート王は、1551年にエメラルド仏を首都ルアンプラバンへ運んだ。1564年、ビルマのタウング王朝の侵攻を懸念したセーターティラート王によって、仏像は更に新しい首都ヴィエンチャンに運ばれ、ランサーン王国分裂後はヴィエンチャン王国によって保持された。        
活動報告写真
 1777年、トンブリー王朝(タイ)のタークシン王がビルマ(コンバウン王朝)と繋がっていたヴィエンチャン王国へ侵攻すると、1779年に後のラーマ1世(当時はタークシン王に仕える将軍)がエメラルド仏をヴィエンチャンから略奪してトンブリー(現在のバンコク)へと持ち帰った。後にラーマ1世がチャクリー王朝を開くと、エメラルド仏は1784年からラーマ1世が設置したワット・プラケーオに安置される事となり、そのまま今日まで至っている。   
     

 

ワット・シーサケット Wat Sisaket

   活動報告写真   

 ワット・シーサケットは1818年(一説には1824年)、アヌ王によって建立された寺院である。        

 現存するヴィエンチャン最古の寺院で、市内で唯一、建立された当時のままの姿を保っており、破風に凝らされた木彫や塗り替えられていない往時のままの佇まいが見られる。本堂の中に入ると大きな釈迦座像が祀られており、周囲の壁には創建時に描かれた壁画が残っている。描かれてから200年も経っていないのに数百年も前に描かれた古い画のように煤けている。        活動報告写真        
 本堂は四角い回廊に囲まれていて回廊にはたくさんの仏像が並んでいる。壁の前に並んでいる仏像だけで120あり壁の凹みに祀られた小さな仏像を合わせると6840もあるという。そのほとんどの仏像からは、度重なる戦乱によって目に嵌め込んでいた宝石類や頭部の金細工等が取り去られてしまっている。        

 本堂及び回廊に安置されている仏像はほとんどすべてが釈迦牟尼像(お釈迦様=仏陀の像)である。ラオスの寺院で安置されている仏像のほとんどすべてがこの釈迦牟尼像である理由は、ラオスの仏教は日本の大乗仏教ではなく、上座部仏教であるからである。日本の寺院で見られる薬師・大日・阿弥陀などの如来や、観音・地蔵・勢至・普賢・虚空蔵などの菩薩、不動・愛染などの明王は、すべて大乗経典に説かれている仏であり、これらの仏はラオスの上座部仏教には存在しない。        

活動報告写真 上座部仏教は、かつて大乗仏教側から「小乗仏教」と呼ばれたもので、釈迦によって定められた戒律と教え、悟りへ至る智慧と慈悲の実践を純粋に守り伝える姿勢を根幹に据えており、自ら出家して修行することによって悟りをひらくことができるとするものである。        
 また、ラオスの釈迦坐像は一様に「降魔印(こうまいん)」を結んでいる。「降魔印」は、右手(人差指や中指だけの場合もある)を伸ばし、甲を外に向けて地面に触れる形の印である。この印相には次のような話が伝えられている。        

活動報告写真 悟りを得るために苦行を続けていた釈迦は、ある日、このような苦行は悟りには無益であるということに気づき断食を止め苦行林を去る。そして、河で沐浴をして体の汚れを落として、村の牛飼いの娘スジャータから乳粥の布施を受け、心身を回復させ、菩提樹の下で禅定に入った。深い瞑想の中にいる釈迦に対して、悪魔がその悟りを阻止しようと誘惑や脅しなど様々な手段を用いて邪魔をしようとした。この悪魔との戦いに勝利した釈迦は、右手の指先を大地に触れ大地の神に自分が「目覚めた人=仏陀」になったことを証言させ悪魔を退散させた。この形が「降魔印」であり、誘惑や障害に負けずに真理を求める強い心を象徴するとともに、釈迦が悟りを開いたときの象徴的な姿である。また、降魔印は手を大地に触れさせることから「触地印(しょくちいん)」とも呼ばれる。なお、左手は腹前に置く「定印(じょういん)」であり、瞑想に入っていることを意味するものである。        

 この降魔印を示す釈迦像は我が国では少なく、施無畏印(さまざまな恐怖を取り除くことで右手を上げて指を伸ばして掌を外に向ける印相)・与願印(人々の願いをかなえてくれることをあらわし左手を前に差し出し掌を外に向ける印相)の印相を示すものがほとんどである。また、足の形は「半跏趺坐」で、右足を左足の上に置く「吉祥坐」である。(左足を上に置く「降魔坐」ではない。)    

 なお、ラオスにおける仏像のもう一つの態様は臥像であるが、これには寝釈迦像と涅槃像の2つがある。寝釈迦像は、釈迦が説法をしている時の姿であり、当時の説法時の姿勢を示している。涅槃像は、釈迦が入滅した時の姿を現わしており、本来は別のものであるが両者の区別は混乱しており、両方併記の像も珍しくない。一般的には、寝釈迦像は目を開けており、涅槃像は目を閉じているとされる。        

 

アヌ王 Anouvong, Saya-Sethathirath III

   活動報告写真   

 チャオ・アヌウォン王(1767年 - 在位1803年 - 1828年)はヴィエンチャン王国最後の王であり、正しくはセタティラート3世であるがアヌウォン王やアヌ王という名称の方が一般的である。        

 タイのトンブリー王朝時代属国であったヴィエンチャン王国のブンニャサーン王がタイ領ウボンラーチャターニーに侵攻したので、同王朝のタークシン王は後のラーマ1世に命じてヴィエンチャンを攻めさせた。この時ブンニャサーン王はベトナムに逃げたが、彼の子がヴィエンチャンに残っていたので、ラーマ1世は人質としてこれらの子らをバンコクへ連れて帰った。この兄弟の中の三男がアヌウォンである。        

 後にタイではトンブリー王朝が倒れ、チャクリー王朝がラーマ1世によって建てられた。その後ブンニャサーン王が死ぬと、長男ナンタセーン・ポンマラオを王として即位させたが、その死後、次男インタウォンを王に、アヌウォンを副王にした。アヌウォンはラーマ2世の要求に応じて、1798年から1799年にかけてタイで行われたビルマ残留軍掃討作戦へ司令官として参加、ラーマ2世の信頼を得た。1805年に兄インタウォン王が死ぬとラーマ2世の推挙でアヌウォンは王位についた。アヌウォン王の時代、ヴィエンチャンでは1807年に新王宮が建立されたほか、1808年にタート・パノム橋の建設、ノーンカーイにシー・ブンファン寺院の建立、1824年にセーン寺院の建立など当時の土木技術の粋をこらした建築物が多数建設され黄金期を迎えた。        

 ラーマ2世の葬儀の際にバンコクを訪れたアヌウォン王は、ラーマ3世に対して捕虜となっている王族や奴隷として連れ去られた多くのラオ人の返還を求めたが拒否されたために恨みを抱き、後にタイに反旗を翻したとも言われる。しかし、実際のところは、黄金期の財力と軍事力の高まりにチャクリー王朝から独立を達成する機が熟したとアヌウォン王が判断したことが反旗を翻した理由であろう。        

 タイはそのころベトナム・ビルマ・クメール・フランス・イギリスの軍事的脅威にさらされていたため、アヌウォン王は1826年に挙兵、翌年にはタイからの独立を宣言し、バンコクに攻め入ろうとタイ領ナコーンラーチャシーマーを通過しようとした。その際、国主がバンコクにおり留守だった為、国主の妻ヤーモー(ターオ・スラナーリー)は県内の女性たちとともに兵士たちを歓待し酒を飲ませて酔いつぶした上、包丁などで襲いかかって武器を奪い、アヌウォン王を敗走させた(これによりヤーモーはタイの救国女傑としてナコーンラーチャシーマー市内にその像が建てられている)。1831年、ラーマ3世はヴィエンチャンに討伐軍を送りアヌウォン王とその一族を捕らえた。アヌウォン王はバンコクまで護送され、そこで崩御した。        

 タイはヴィエンチャン王国の再興を懸念し、王都ヴィエンチャンを焼き尽くすなど徹底的に破壊したため、事実上1828年にヴィエンチャン王国は滅亡した。        

 現在、アヌウォン王は、ラオスの英雄である。ヴィエンチャンのセタティラート通りに、その銅像が建てられている。        

 

パトゥーサイ(凱旋門) Patousay

   活動報告写真   

 パトゥーサイ(凱旋門) はラオスを代表する建造物であり、その名前からパリの凱旋門を想像したくなる。        

 ラオス語でパトゥーとは「扉」「門」を、サイとは「勝利」を意味しており、全体では勝利の門=凱旋門と日本語では表現される。        
 1993年まではアヌサーワリーと呼ばれていたが、これは「記念碑」を意味する言葉である。現在でもラオス人はこの建物のことをアヌサーワリーと呼ぶことが多い。タート・ルアンはラオス仏教の最高の寺院で、ヴィエンチャンの名所というだけでなく、ラオス全体のシンボルであり、現在の国章にも描かれている。        

 このパトゥーサイは、1962年(一説には1960年)に、内戦の終結とパテート・ラーオの勝利を記念して建造が開始された。ランサーン通りをパリのシャンゼリゼ通りに見立て、パリのエトワール凱旋門を参考にして建設を行ったといわれているが、建築はラオス様式である。資金難などにより現在でも未完成のままとなっている。        活動報告写真活動報告写真        
 階段で一番上まで登ることができ、そこには土産物や飲み物を売る売店がある。一番上の塔まで上れば、広くヴィエンチャン市内を見渡すことができる。        

 右の写真は、パトゥーサイ公園側のもの。地図で見ると北の方角にあたる。        

 左の写真は、ランサーン通り側。通りの正面にある水色の大統領府に向かって右斜め前には国内各地から優秀な生徒が集まるといわれるビエンチャン高校があり、その正面には国連関係機関の入るオフィスビルが見える。 タラート・サオ(モーニング・マーケット)が少し先の左側に位置しており、少し見えにくいが、正面の大統領府の先にはメコン川が流れている。        

活動報告写真 凱旋門の真横(大統領府に向かって右側)には首相府の大きな建物が見え、その反対側には、農林省・司法省などの建物があるが、まだまだ高い建物は少ない。    

 さて、凱旋門を下から見上げた天井にはインドの神話「ラーマーヤナ」をモチーフにして、神々のレリーフが描かれている。    

 写真の左側に描かれている白い像に乗るのはインドラ神(日本では、帝釈天と呼ばれる)であり、その反対側には7つの頭を持つナーガ(竜)に守られて瞑想する仏陀と思われる。        

 

シェンクワン情報Xieng Khouang

 

シェンクワン大仏 Budha in Xieng Khouang

   活動報告写真   

 シェンクワンの大仏。        

 

ジャール平原 Plane of Jar

   活動報告写真   

 シェンクワン近郊のジャール平原には、不思議な石でできた壺が並んでいる場所があります。        

   活動報告写真   

 誰がなんのために作ったのか、確かなことは分かっていません。        

   活動報告写真   

 石棺であるとも、祭祀用のなにかであるとも言われますが、やっぱりわかりません。        

 

日本ラオス青少年協会

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